「今日はシェパーズパイを作るわ」
オーストラリアでホームステイをしていたとき、その家のカレン姉さんは、夕食にシェパーズパイを作ってくれた。
かつて日本で英語教師として4年間勤めたカレンは、日本語も素晴らしく上手で、日本語の発音も日本人並みで、漢字の読み書きも出来る人です。
シェパーズパイの綴りは「Shepherd’s pie」で、直訳すると「羊飼いのパイ」という意味ですが、羊肉に限定する必要はなく、オーストラリアでは牛ひき肉で気軽にこの料理を作っています。またパイと名がついてもパイ生地を使わない。ゆでたじゃがいもやさつまいもを潰して、マッシュポテトをひき肉炒めに乗せて、2層にしてオーブンで焼くのです。
ネット検索を活用した情報収集だと、皆ステレオタイプのように「羊肉を使うとシェパーズパイ、牛肉を使うとコテージパイ」と異口同音。でもカレンはそうじゃなかった。彼女は牛ひき肉を使ってシェパーズパイを作ったのです。家に牛肉がたまたまあったという訳ではないんですよ。一緒にスーパーマーケットへ買い物に行き、材料を揃えたのですから。
羊のひき肉もある中で、カレンは牛ひき肉を買いました。
私はカレンに質問をしました。
「羊肉を使わなくても、シェパーズパイって言うの?」
カレンは笑顔で答えてくれました。
「だって、羊飼いは羊が可愛いから羊を食べないのよ。」
なるほど(笑)って思いました。もちろん羊肉を使うシェパーズパイもあるので、その回答はユニークなジョーク混じりです。思うに、そこがオーストラリアで、オージービーフのお膝元だから、安価でも美味しい牛ひき肉を使った素晴らしい味わいのシェパーズパイは、家庭料理の定番なのかもしれません。
* * *
あれから何年か経ち、私は「シェパーズパイは羊肉でなく牛肉でも作られるのか」という当時の疑問を、自分でも検証しようと思いました。
◆Google検索「”shepherd’s pie” “beef”」
ありますあります、ありますね。牛ひき肉を使うシェパーズパイ。
◆Wikipedia英語版「Shepherd’s pie」
文章冒頭では、シェパーズパイは羊肉使用、コテージパイは牛肉使用と書いてありますが、右端の要約の欄には、「Shepherd’s pie」という見出しの直下に「主な材料:牛肉、羊肉、マッシュポテト」とも書いてあります。
◆洋書「Mrs Beeton’s Book of Household Management」(≫こちら)
英国の若き主婦、イザベラビートン夫人による主婦向け読本。この中身を見ることができました。
◆Wikisource英語版「Page:Mrs Beeton’s Book of Household Management.djvu/898」(≫こちら)
同書の1907年発行版にシェパーズパイのレシピがあります。材料は牛肉または羊肉、マッシュポテト、バター、肉汁、玉ねぎ、塩、こしょうです。牛肉のほうが先に記されているのも見逃せません。
◆Wikipedia英語版「Shepherd’s pie」
再度ここを読むと、こんなことが書いてありました。要所を抜粋しますと、
- コテージパイという名称は1791年には使用されていた。この頃はじゃがいもが貧しい人々向けの食材として導入された頃である。「コテージ」は農村部労働者の質素な住居を意味する。
- シェパーズパイという名称は1854年まで現れなかった。1854年以来、シェパーズパイは、主原料が牛肉かどうかにかかわらずしばしばコテージパイの同義語として用いられる。
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<まとめ>
- シェパーズパイといえば羊肉使用、コテージパイといえば牛肉使用の傾向は確かにあると思う。
- しかし、シェパーズパイという名称が生まれるよりも何十年も(あるいはそれ以上)前から、コテージパイという料理名だけが先にあった。
- コテージパイはおそらく肉の種類を問わない料理名だったのだろう。そしてシェパーズパイという料理名が広まったあとも、シェパーズパイは牛肉でも羊肉でも作ることができると成書に記されてきた。
- 21世紀の現代でも、牛ひき肉を使ったシェパーズパイが作られている。
・・・人のまねをすることはとても簡単です。みんなが「これは牛肉、これは羊肉」ってステレオタイプになっているとき、自分も同じことを言うのなら簡単です。しかし本来、引用をするためには知識や経験が必要なはず。知らないと、知らないまま同じ言葉を使ってしまう。これって怖いことですよね。
シェパーズパイの話に戻りますと、「シェパードが羊飼いという意味だからシェパーズパイは羊肉を使う料理である」と決めつけるのも安易な気がします。米農家がパンを食べたってよいのだから、羊飼いが羊以外のお肉を食べるのは、普通にアリな気がします。それが、カレンが言った「だって、羊飼いは羊が可愛いから羊を食べないのよ」の言葉とも重なります。
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カレンと出会った場所は、オーストラリアのケアンズです。ケアンズのもう一つの思い出が、沖にあるグレートバリアリーフという世界最大の珊瑚礁。ここは世界遺産にも登録されています。
ケアンズを離れる飛行機の中から窓の外を見ると、美しいグレートバリアリーフが見えた。
ありがとうカレン。
あなたのレシピ、大事にします。
そういえばこのレシピを書いてくれたときも、「オーストラリアでミンス(ひき肉)といえば、普通は牛ひき肉を指すのよ」と教えてくれましたね。
カレン本当にありがとう。
日本に帰ってからも、とってもとっても美味しいシェパーズパイを作ることができています。
あなたに会えて、本当によかった。
あなたとの出会いは、旅の大きな宝物です。また、会いたい・・・。