今年、北コーカサスを旅しました。
北コーカサスといえば日本人には紛争のニュースからチェチェンや北オセチアがおそらく知られるところです。でもそれ以外にも、北コーカサスは今もあちこちに紛争の火種を抱えています。
料理の点でいえば、例えば南コーカサスのジョージア(グルジア)や黒海南岸のトルコが香辛料を多く使う地域であるように、北コーカサスも香辛料の美食地域と言われています。しかし北コーカサスは、紛争が繰り返されてきた地域ですから旅行者が特に少なく、旅行情報すらろくにないのに、料理情報となると極めて乏しい。しかしそこには長らく人が住んでおり、コーカサスの文化がある。だから、行けば必ず料理の発見が相次ぐ地域だと思い、旅することを楽しみにしてきました。
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「北コーカサス」の理解のために、ロシアの地図を以下に示します。
↓これがロシアのおおまかな地図です。
↓ロシアは連邦制国家であり、このように85の行政区域に分かれています(※)。
※クリミアとセヴァストポリを含めてカウントした数字
85のうち「共和国」をなす区域は22あります。ロシアの内部の共和国なので、英語ではインナーリパブリックと呼ばれることもあり、私はインナー共和国と呼んだりもします。
↓これが、22のインナー共和国です。
なぜ国の中に国があるのかというと、それは、ロシア人ではない民族が築いてきた土地だからです。チェチェン共和国はコーカサス系のチェチェン人の国、といった具合です。ロシアのインナー共和国ではチェチェンが一番有名だと思うので、上の地図からチェチェンを探してみてください。チェチェンは左下にあります。そしてチェチェンのあたりはインナー共和国がたくさん連なっていますよね。民族的にも複雑であることが一目で分かります。それらの南(この地図では左下)の国境線はコーカサス山脈ですから、山脈の北に連なるという意味で「北コーカサス」(別名北カフカス)と呼ばれます。
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今回の旅の行程です。日本からモスクワ経由で、INとOUTを分けることで北コーカサスを横断します。
拡大して、行政区域単位の行程を示します。
(日本→モスクワ乗り換え→)クリミア共和国→セヴァストポリ特別市→クリミア共和国→クラスノダール地方→アディゲ共和国→カラチャイ・チェルケス共和国→スタヴロポリ地方→カバルダ・バルカル共和国→北オセチア・アラニヤ共和国→イングーシ共和国→チェチェン共和国→ダゲスタン共和国→カルムイク共和国→ヴォルゴグラード州(→モスクワ乗り換え→日本)。
こうして今回の旅は北コーカサスのインナー共和国群を全制覇しています。更に、2014年以降クリミア紛争が起こっているクリミア共和国と、ヨーロッパ唯一の仏教国カルムイク共和国を含めたルートです(※)。
※なお、クリミア、セヴァストポリ、カルムイク、ヴォルゴグラードは北コーカサスには含まれません。
都市を示した行程です。
(自宅→成田→モスクワ→)シンフェロポリ→バフチサライ→セヴァストポリ→シンフェロポリ→ヤルタ→シンフェロポリ→ケルチ→アナパ→クラスノダール→マイコープ→チェルケスク→キスロヴォツク→ピャチゴルスク→ナリチク→ウラジカフカス→ダルガフス(周遊ツアー)→ウラジカフカス→ナズラン→マガス→ナズラン→グロズヌイ→マハチカラ→デルベント→エリスタ→ボルゴグラード(→モスクワ→成田→自宅)。
知っている地名があまりなく、如何に北コーカサスが日本人にとって見知らぬ存在であるかを実感します。
それでは、北コーカサスの料理の旅の視点から総括してみます。
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1)クリミア共和国
成田→モスクワ。乗り換える先はクリミア共和国のシンフェロポリへ。
・・・モスクワから「国内線」に乗った事実。この驚き、分かりますか? クリミアは実質ロシアになってしまった。かつて2国間の取引でウクライナの領土となったことを理由に今もウクライナ政府はクリミアの領有を主張しているが、住民はほとんどロシア人であり、住民投票でもロシアへの編入希望が圧倒的多数だった。
でも、クリミアに行くと、ウクライナ政府やロシア政府やらの争乱から離れて、もっと思い出させてくれることがある。クリミア半島には、追放されるまでは、クリミアタタール人が住んでいた。ここはタタールの地だった。
タタール料理店に行った。チェブレク(具入り薄揚げパン)やプロフ(炊き込みご飯)のようなユーラシア広域の料理もあるが、ヤントゥイク(揚げない具入りお焼き)やタタールアシュ(水餃子)のような、他で見たことがない料理がある。
これはユファクアシュ(ミクロな水餃子スープ)。
ロシア語サイトでは「顕微鏡的なラビオリ」と紹介されているミクロな水餃子スープ。スプーンに水餃子が8つ乗るだなんて、1つがどれだけ小さいのよって、作る手間暇を慮る。
クリミアタタールの料理は、料理の内容も料理名も、トルコ -それは中央アジアを含め- の一端のような気がした。またクリミア半島の料理は、料理にバジリク(紫バジル)やキンザ(パクチー)やペトルシュカ(イタリアンパセリのよう)などのハーブをたっぷり添える傾向を感じた。唐辛子も使い、なかなか風味がよい。
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2)クラスノダール地方
クリミアから「ロシアが作った橋」(←ここに政治的脅威を感じてください)を渡ればウクライナを経ずにロシアへ渡れる(←ここが政治的脅威です)。この緊張する橋を渡ってアナパに移動した。黒海東岸のビーチリゾートだ。ロシア人で溢れている。でもそこは、かつてアディゲの漁港だった。
旅はこのあたりから、「アディゲ」について知らないわけにはいかなくなる。・・・なのにアナパでは「アルメニアン」という、もっと大きな衝撃に次々と出会う。
ハチャプリ、ジェンギャローハーツ、ちょっと待ってよ、アルメニア料理と思っている料理の多さにハッとする。
軽食商売をしている人に、ロシア語で「あなたの民族は何ですか」と尋ねると、「アルメンスキー」(Армянский)と言う人が多い。・・・この先も北コーカサス地域ではアルメニア人を多数見た。アルメニア人の離散(ディアスポラ)の歴史か。南コーカサスからの離散先のひとつが北コーカサスだったのか。確かにソ連の時代は移住しやすかったはずだから・・・。アルメニア人離散の理由の1つには隣国より虐殺を被った歴史が挙げられる。そんなことを考えながら食べるジェンギャローハーツ(ハーブパン)は、「今、ここに、この料理があること」が心中を直撃し、複雑かつ美味しく、悲しいのに美味しく、涙が出そうだった。
なお、クリミア半島から北コーカサスに入り、料理に香辛料が増したように思う。ロシア人は香辛料をあまり使わないが、コーカサス人は香辛料をよく使うのだ。ハチャプリを食べる食卓にも赤唐辛子粉が乗っている。名前を聞いたところ、ピエレツゴーリキーと言っていた。ピエレツはこしょうや唐辛子やピーマンのこと。ゴーリキーはロシアの昔の作家の名前だ。
3)アディゲ共和国
旅はアディゲ共和国の都のマイコープへ。とうとう北コーカサスの共和国群へ突入した。クリミアやアナパで見たリゾートな街並みは消え、ムスリム(イスラム教徒)が目立つようになってきた。下の写真の女性はアディゲ人だ。宿のお姉さんもアディゲ人だった。
マイコープには、中央アジアやアフリカやアフガニスタンなどからの留学生ムスリム(※)がとても多い。ムスリムは食事や生活において宗教上の制約が多く、欧米や日本に留学することは困難だ。しかしここはロシア内でもイスラム教徒が集中するアディゲ共和国ゆえ、G7クラスの先進国の進んだ教育を受けながらもムスリムが生活しやすい絶好の留学先だという。確かにG7の中のイスラム自治国なんて、そんないい場所、北コーカサスとタタールスタン共和国(ロシアの別のインナー共和国)以外ちょっと思い浮かばないよね。
今はラマダン(※)であり、日の出から日没まで水すら飲めない。モスク(※)の前ではイマーム(※)が信者のための日没後の食事を作っていた。今日はプロフだ。イマームはウズベキスタン人だ。ロシアはソ連時代に宗教の信仰ができなかったため今も地元の高位聖職者が足りず、各地に中央アジア(特にウズベキスタン)からイマームが派遣されているのだが、ここもそうなのだろう。
※ムスリム:イスラム教徒、ラマダン:イスラム教に基づく断食月、モスク:イスラム教寺院、イマーム:イスラムの高位聖職者。
中央アジアの人々がこのように移住してくるため、ロシア全土においてプロフはもはや国民食の位置づけなのである。
また、宿のフロントのお姉さん(アディゲ人)に「アディゲ料理を幾つか書いてください」と頼んで料理リストを作ってもらった。リストにあるのはハルージュ、シップス、ママリガ、ソウスアディゲスキー、コヤジュ。そしてそれを食べられるレストランを教えてもらって食事をした。
ママリガは有名なルーマニア料理と同じね・・・と軽く思っていたら、この旅一番と言えるコーカサス料理での大衝撃を受けることになる。
上の写真のメニュー3つめは、「Macmэ」や「Ⅲacmэ」と書いてあるように見える(1文字めはШが逆になったような文字)。ロシア語筆記体の「Ⅲのような字」はブロック文字の「Т」で、「m」の筆記体はブロック文字の「т」、つまり筆記体のM/mは「タティトゥテトの子音」なので、私が「マスタ?」「タスタ?」と読み上げたら、・・・驚いた。店員には「パスタ」と言い直されたのだ。どうして? どうやったらこの文字がパスタと読めるの? 実態はママリガすなわち、メニュー写真にも写っているトウモロコシ粉の練り固め料理なのに・・・。
なお、ソウスは、香辛料パウダーを混ぜたヨーグルトディップだ。美味しかった。
アディゲ共和国では、モスクの食事でもソウスがついていたし、次のカラチャイ・チェルケス共和国でも似たソウスに出会う。北コーカサス料理は、レストランメニューでもその土地のソウスが載る。北コーカサス料理のひとつの特徴はソウスにある。アディゲのソウスはアディゲ語でアパシップスと言うのだと、ムスリム女性に教わった。
なお、アディゲ共和国に入って、市場の香辛料の量並びに種類の多さに驚いた。完全に、香辛料文化圏に入った。市場のおばさんが手作りの自慢のアジカを私にプレゼントしてくれた。料理上手のムスリム女性は、モスクの日没後の食事会に手作りのアジカを持ってきて、私に食べさせてくれた。北コーカサスの料理、少なくとも北コーカサス西部の料理は、香辛料をよく使うことが特徴に挙げられる。
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4)カラチャイ・チェルケス共和国
マイコープからバスに乗り、カラチャイ・チェルケス共和国の首都のチェルケスクに到着した。途中、コーカサス山塊の大自然豊かな雄大な風景に包まれ、今いる土地柄がコーカサス山塊であることを再確認する素敵な道だった。ここにはアディゲ共和国から移動してきたわけだが、ここにきて、「アディゲ」が滅茶苦茶にこんがらかってしょうがない。だって、ねえ、次、どうやって辻褄を合わせる?
- アディゲ人はチェルケス人である。
- アディゲ人には12の氏族がある(アブザク人、ベスレネイ人、ブジェドゥグ人、ハトゥクワイ人、マムヘグ人、ナトゥカジュ人、カバルド人、シャプスグ人、チェミルゴイ人、ウビフ人、イエゲルクワイ人、ジャネイ人)。
- 次に向かうカバルダ・バルカル共和国は、トルコ系のバルカル人と共に、アディゲの一氏族のカバルド人が多く居住する。
- ここカラチャイ・チェルケス共和国は、トルコ系のカラチャイ人と共に・・・ちょっと待ってよチェルケス人は12の氏族の総称じゃないか。ここカラチャイ・チェルケスに住むコーカサス系民族は、アディゲの一氏族のベスレネイ人が多く居住するがその名称は国名に反映されていない。
- アディゲ共和国に多く住むアディゲの氏族は、ブジェドゥグ人とチェミルゴイ人である。
- ソ連時代ロシアによって「アディゲ人の分断」がなされた。「アディゲ共和国に住むアディゲ人をアディゲ人と呼び、アディゲ共和国以外のアディゲ人をアディゲ人とは呼ばない」ようにされてしまった。
- ソ連時代ロシアによって「チェルケス人の誤認」がなされた。「チェルケス人は広義のアディゲ人でありアディゲの12氏族の総称であるが、カラチャイ・チェルケス共和国のアディゲ人をチェルケス人と呼び、カラチャイ・チェルケス共和国以外のチェルケス人はチェルケス人とは呼ばない」ようにされてしまった。
ああ、もう、訳が分からなすぎて、涙が出る。こんなおかしい政策の被害者は北コーカサスの住民です。そして、民族団結をぶち壊すのがソ連ロシアスターリンの狙い。その狙いがここまで成功していて、その凄さに呆然とする。。。 スターリン、好きか嫌いか良いか悪いかも言わんが、あんたすごいよ、ほんと。広域に地元民を巻き込んで無茶ぶりを発揮したその力は。
夕食は、バーレストランへ行った。バーと標示しているのにメニューにお酒が一切ないのはここの土地柄か。そういえば朝から夕方までかかるバス移動も昼食休憩がなかったっけ、今はラマダンなので。私が店員に「メニューからチェルケス料理を選んでください」と伝え、店員が選んでくれたのは、ミャスナエデリカテッサ、つまり加工肉の盛り合わせだった。
加工肉は北コーカサスの風土に合った伝統料理なのだろう。左から順に、牛肉、鶏肉、牛肉、牛肉の取り合わせだった。普通サラミの類だったら豚肉を使うところでしょう。なのに豚肉がない。酒もないから飲んでいるのは地元名物のリンゴ炭酸ジュースです。何で折角バーの看板の店に入ったのにリンゴジュース~?って思っちゃいますよね。でも、これらのことからここカラチャイ・チェルケス共和国はアディゲ共和国以上にイスラムの習慣が強いように感じた。
ここでもソウスに出会った。アディゲのアパシップスによく似ており、ここではトゥズルクと呼ばれていた。トゥズルクはカラチャイ・チェルケス共和国において何ヶ所かで味わうことができた。
カラチャイ・チェルケス共和国に入ると、フチン(薄いパン生地2枚に具を入れて焼くもの)がとにかく目立つ。下の写真の左上の料理だ。
下の写真はレストランのメニュー。見出しの「ナショナルブリューダ」は「国民食」の意味だが、ここではもちろんロシア人料理という意味ではなく、カラチャイ・チェルケス共和国料理という意味だ。
スショネミャサ(乾燥肉)やクイマー(ソーセージ)は昨日の肉盛り合わせに入っていたものだ。昨日の夕食の肉盛り合わせは期待通りここの国民食だったのだ。
旅計画段階において、ラマダン明けという、日本人の正月に相当する一年で最もおめでたい日を、このカラチャイ・チェルケス共和国に合わせた。イスラムの佳き日はイスラムの共和国に合わせないと面白くないもんね。そして狙い通り、ラマダン終了のお祝いの食事に同席することができた。
ここは市役所前の広場。ラマダンを無事に終了したムスリム国民たちの喜びが伝わる素晴らしい光景。クルガンエト(羊肉煮込み)、トゥズルク(アイランにんにくソース)、ガルドシュ(揚げじゃがディルまぶし)などカラチャイ・チェルケス共和国の郷土料理を見て食べることができた。作り方も聞いた。早く日本で作りたいな。
5)スタヴロポリ地方
次はロシアで名だたる温泉保養地キスロヴォツクに滞在した。もともとアディゲ/チェルケスの土地だったがロシア人が奪取したもので、食べるものも、ロシアのどこにでもあるロシア料理だった。だが個人商店に入るとあちこちでアルメニア人がいることに気づく。彼らは自国のパンや総菜(すなわちアルメニア料理)をよく売っている。でもそりゃそうか。そもそも北コーカサスはイスラム教を信仰する人が多いので、キリスト教徒のアルメニア人にとっては自国から逃げ出すとき、北コーカサスのイスラム地域を飛び越して、ここのようなロシア人タウンに来るほうが生活しやすいのは間違いないんだろうな。ロシア人は(宗派は違っても)キリスト教徒なので。
6)カバルダ・バルカル共和国
北コーカサスの共和国3つめはカバルダ・バルカル共和国です。ここでもう一度アディゲ人について書いておくと、「北コーカサス西部一帯はチェルケシアと呼ばれ、その住民であるアディゲ人はイコールチェルケス人であり、12の氏族に分かれ、そのうちの1つにカバルド人がある。よってカバルド人はアディゲ人ないしチェルケス人だが、ソ連のロシア政策はアディゲ共和国のアディゲ人をアディゲ人としてしまいアディゲ共和国以外のアディゲ人はアディゲ人と呼ばないようにしたため、カバルダ・バルカル共和国のアディゲ人はカバルド人と呼ばれる。」・・・知らないと難解でも、これが読めるようになると北コーカサスが理解しやすくなるはず。
土産物屋で、感動する地図を見つけた。18~19世紀のチェルケシアを示す地図だ。多分、今回の北コーカサスの旅の、知らなければならない最重要点がこの地図なんだ。北コーカサスを知るためにはこれを知らなくちゃいけないんだ。
地図をよく見ると分かる。次に訪問する予定の北オセチア共和国のウラジカフカスあたりからクリミアの次に訪れたアナパあたりまでのほぼすべてがチェルケスの地だ。ここで言うチェルケスとはカラチャイ・チェルケス共和国ではない。チェルケスは、北コーカサス西部の広大な地域を指す。
兵士が、12の氏族を12の星に見立てた旗を持っていた。
これはカバルダ・バルカル共和国の国旗ではない。これが、今は存在しないチェルケスの国旗だ(※)。元来の(広域の)チェルケスの地に住むチェルケス人(=アディゲ人)は現在70万人で、うち50万人がここカバルダ・バルカル共和国に住んでおり、人々と話しをした印象では圧倒的にここの人々がチェルケス人としての意識を強く持っているように感じた。この旗からもだ。
※この国旗はアディゲ共和国の国旗として現在受け継がれている。
料理の点では、アディゲ共和国のマイコープで、「私が「Macmэ」か「Ⅲacmэ」のような文字を「マスタ」や「タスタ」と読んだ後に「パスタ」と言い直された料理」と同じとうもろこし練り固めがここにもある。ここでもパスタと言っていた。
文字と音のつながりがまだ分からないが、ひょっとしてスパゲティーなどのパスタの原点はこの練り物なのかな?
レストランでは、コーカサス料理と言って出してくれたヒンカリ(でか水餃子、写真左)と、広くアジア料理と言って出してくれたマントゥイ(でかシュウマイ、写真右)を比較できるよう1枚の写真に収めてみた。
「この時点では」ヒンカリは生地に肉を包む料理と認識できる。日本人に知られるジョージアのヒンカリそのものだ(※しかし後ほどコーカサス東部でこの思想が覆されることになる)。このヒンカリには香辛料も利いていて、さすがコーカサスの美食、美味しいなあ。そしてほら、料理にはソウスもつく。ジョージア(グルジア)でヒンカリを食べてもこういうソウスはつかなかった。よって北コーカサスはソウス文化だなあと改めて思う。
下の写真の左上は、ここカバルダ・バルカル共和国の市場の食堂で食べたルガゴワ(肉のクリームがけ)。乾燥肉で作っていたので、味が濃くて旨い。
そこで実感するのは、乾燥肉はカラチャイ・チェルケス共和国で食べたスショネミャサ(乾燥肉)と同じ文化なのだなということだ。乾燥肉は、北コーカサス広域の文化なのだと実感できた。コーカサス山脈の吹きおろしの風は肉の風乾に適しているのかもしれない。
乾燥肉を意味するスショネミャサは明らかにロシア語だ。カバルダ語ではルガゴワ・・・いや違う、そんな発音じゃない、でも話者の発音がカタカナにできないっ!!!・・・綴りは「лыгъэгъуа」、読みは「ルカ°コ°ワ」、「カ°」と「コ°」はめっちゃ鼻にかかる声で。・・・やばい、この独特の言語がやばい。すっごい面白そうでやばい!! 文字も、ロシア語ではそこまで繁用されない「ъ」が多用されており、わくわく気分が止まらない!!
なお、写真右上の円盤パンはフチンです。カラチャイ・チェルケス共和国同様、ここカバルダ・バルカル共和国でもあちこちでフチンを見かける。その他、リャグール、カルプ、それからサライミャソム(焼いただけの肉)などをカバルダ・バルカル共和国で食べた。この町はムスリムが多いと思った。
なお、この後ミニバスで移動して北オセチア・アラニア共和国の首都のウラジカフカスへ進むが、車内では隣席の弁護士のお姉さんが英語もペラペラで、これまでの料理名などで不明だったことを質問することができた。彼女自身はアディゲ人だそうだ。ナリチク在住だからカバルド人のようだ。そして彼女への聞き取りから、上述の、「「Macmэ」か「Ⅲacmэ」のような文字を「マスタ」や「タスタ」と読んだ後に「パスタ」と言い直された料理」について、衝撃の事実が分かった。
コーカサス諸語は欧米の言葉よりも子音が多い。昔アラビア文字で書かれていた時代の「ف」と「ڢ」がそれぞれ「 П 」と「 Пӏ 」であり、音価はそれぞれ「p」と「ph」である。やっとわかった。「Macmэ」や「Ⅲacmэ」のように書いてある(正しくは1文字めはШが上下逆になったような文字)料理名は、「Пӏ acmэ」だ。そんな文字を見たことないけれど、だから「パスタ」だったのだ。ただしPastaではなく、Phasta。やっとわかった。意味不明な文字がひとつ解決にたどり着いたことに、背筋が寒くなるくらいゾクゾク、わくわくした。北コーカサスでは、アディゲ共和国からチェチェン共和国に至るまで、「 ӏ 」(縦1本の文字)の不思議と謎に多数遭遇することになる。言語の音が少ない日本人にとっては、不思議な国の世界そのものである。
7)北オセチア・アラニア共和国
文化的にも人種的にも、北コーカサスの中で突出して異色なのが北オセチア・アラニア共和国だ。日本人には紛争の報道で知られるところであるが、民族的理解はあまり周知されていないだろう。まず住民が、北コーカサスに広く住むコーカサス系民族やトルコ系民族と違ってイラン系民族である。かれらが話すオセット語(オセチア語)はイラン系言語である。なんでこんなところにイラン系の国がある? また北コーカサスの多くがムスリム居住地なのにここは圧倒的クリスチャン多数。なぜイラン系でクリスチャン(※)? なおオセット人は南北で分断され、今いる北オセチアがロシア内の、南オセチアがジョージア内の共和国となっている。
※西アジアのイラン(イラン・イスラム共和国)は厳格なイスラム教国である。
ここに来て、とにかく目立つ料理はピログだ。
ピログはロシア語だ。オセット語ではチリタと言うのだと死者の谷ツアーの地元運転手に教えてもらった。更に肉が入ったピログ(チリタ)は特にフィチンと呼ばれる。そう、カラチャイ・チェルケス共和国やカバルダ・バルカル共和国でとにかく目立ったフチンとフィチンとは名も同じとみなせる。同じ基礎をもつ料理なのだ。
それから例のソウス文化だが、ここにはツァフトンと呼ばれるソウスがある。下の写真はホテル併設の食堂で「北オセチア料理をください」と店員に伝え、メニューの中から店員に選んでもらった料理で、ルイブジャと言う。ルイブジャはツァフトンで肉を煮込んだものを入れた壺焼き料理だった。美味しかった。
オセチア料理を知りたいと思ってレストランの店員などに聞き取りをすると、北オセチア料理の特徴として、私がこれまでジョージア(グルジア)料理だと思っていた料理の名前がどんどん挙がってくる。ジョージアは南オセチアを領有しており、その南オセチアと北オセチアは同じオセット人の文化。だから、ジョージアと北オセチアも同じ/近い文化なのだ。可能性のひとつとして、オセチアのほうが伝統料理の形成が先で、その料理をジョージア本体が吸収していった可能性もあるだろう。いつかそんな検証もしてみたいと、心からわくわくする。
もう一つの北オセチア料理の特徴として、ワインの量り売りや、自家製ワインを売る人が目立った。バーに行っても酒が飲めないイスラム教国のカラチャイ・チェルケス共和国とは大違い。ここはクリスチャンの国だからお酒はイエスの血すなわち善行なのだ。また、通常、市場の食料品店でろうそくなど売られないのに、ここでははちみつ屋で教会礼拝用のろうそくが売られている。「教会用だ。やっぱりクリスチャンの国だねー」と安易に思っていたときハッとした。「はちみつとろうそく」・・・!! ああそうか、ロウってハチの巣から採れるものな。今まで頭では分かっていたけれど、はちみつ屋がろうそくを売る理由が、生まれて初めて実感を伴う形でつながった。
なお、今回の全行程を終えた後に振り返って得た結論だが、北コーカサスの文化は、異色の北オセチア・アラニア共和国を境とし、西と東に大別できた。それは、西のチェルケス文化と、東のバイナフ文化である。ここが北コーカサス料理の重要点の1つであろう。
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8)イングーシ共和国
ここイングーシ共和国と、次に訪問するチェチェン共和国は、それぞれイングーシ人とチェチェン人の国である。だからこそ、イングーシとチェチェンを理解するためには「バイナフ」を知る必要がある。解説すると、イングーシ人とチェチェン人は同民族であり、同じ言葉を話している(方言程度の違いは今もある)。「バイナフ」は直訳して「我々」という意味で、イングーシ人とチェチェン人をひっくるめて「バイナフ」と呼ぶ。しかし彼らは本来「バイナフ」として同じ民族だったのに、1800年代にロシアが攻めてきた折に、ロシアに支配された部分と抵抗した部分で分けられた。前者(親ロシア)がイングーシで、後者(反ロシア)がチェチェンになったのだ。ソ連時代には両者合併してひとつの国になっていた時期もあるのだけど、うまくやっていけなくて結局今は分離している。食文化や料理の点で言えば、もともと同じ民族がほぼ同じ言葉を話しており伝統料理も同じくして当然だ。だから店には「イングーシ料理」ではなく、こうやって「バイナフ料理」の看板が掲げられている。複数箇所で確認した。
最初私は「バイナフがイングーシとチェチェンだ」ということを知らなかった(あとから分かってよかった、いい勉強になった)。ともあれこの店に入り、メニューをもらい、幸い客に英語を話せるOLがいたので、「イングーシ料理を3つ4つ選んでほしい」と頼み、選んでもらった。もし英語を話す人がいなくても、このくらいのことはいつもロシア語でやりとりできるが、やはり英語が通じるほうが追加質問もでき料理説明も理解ができるのでありがたい。
さあ、選んでもらった筆頭料理は、うわ、衝撃の料理。うわ、強烈。ドゥハハウティン。別の人の発音ではドゥーホートン。
肉がドン。ゆで麺がドン。別皿で生にんにく入りの汁(これが旨い)がドン。コーカサスの肉食系って感じがする。チェチェン語のジジグハウティンの名前でも通じるが、イングーシ語ではドゥハのほうがよいらしい。また、これまでに何度も「北コーカサスはソウス文化だ」と書いたが、この生にんにくたっぷり汁を、ここイングーシ語ではベラムと呼ぶ(ロシア語でソウスだそうだ)。
イングーシ共和国の旧首都で最大都市のナズランでは、ムスリム度の高さと途上国っぷりにタイムスリップした気すらした。イングーシもチェチェンもムスリム度が高いのだが、イングーシはロシアらしからぬ途上国っぷり。まるで異次元の世界と訴えたくなるほど強烈だった。
市場の小さな食堂。ここでもドゥーホートンはメインのトップ料理だ。
そして衝撃の発見、メニューの料理名の中に「1」の文字があるではないか!!「Ч1aьпилг」!!・・・なんだこれは!? アディゲ共和国のパスタ「Пӏ acmэ」と似ているが同じではない。なぜなら「 П 」と「 Пӏ 」の違いに似ているが、今度は、「 Ч 」と「 Ч1 」の違いだ。チャッピルグと読むらしい。ちなみに、クリミアから長く見続けているチェブレキはここにもある。チェブレキはロシアのどこに行っても呼称がチェブレキなのだなと、その普遍性を確認できた。
イングーシ共和国では、最大都市で旧首都のナズランだけでなく、人口の少ない新首都マガスも観光した。そこで食べた、そのチャッピルグ。
ここに来て、やっと気づいた。やっと分かった。同じ料理なんだ。北コーカサス西部すなわちチェルケス地域のフチンも、オセチアンピログ(オセット語ではフィチン)も、北コーカサス東部すなわちバイナフ地域のチャッピルグも、同じ料理なんだ。だってこのチャッピルグ、チーズ入りを注文したのだけど、まさしく「薄々オセチアンピログ」なんだもん。なおこの次の次に訪れるダゲスタン共和国では、この料理はチュドゥと呼ばれることになる。だからこそこの料理は、北コーカサスの広域に分布する料理と言ってよい。
もうひとつイングーシ料理で印象が強いものがある。写真中央の料理だ。料理名を耳にして驚いた・・・、その名もヒンカルまたはヒンカリ・・・。
ヒンカリといえば、ジョージア(グルジア)料理で有名な巨大水餃子を連想するし、先ほどのカバルダ・バルカル共和国で食べた写真左側がジョージアと同じタイプのヒンカリだったが、イングーシのヒンカリは全然違う!!! 小麦粉の発酵生地(パン生地)に具(今回はチーズ)を包んでフライパン焼きにしたもの、すなわち、ピロシキとまるきり同じ料理なのだ。この時点で、「ヒンカリは単に水餃子ではないのではないか、もっと広く、炭水化物系主食と簡単なおかずが一体化した料理を指すのではないか」と私は仮説を立てるようになった。
なお、今回の旅で一番強烈なのが、イングーシ共和国と、その次に訪れるチェチェン共和国だった。ロシア国内なのにロシアと全然違う。イングーシは途上国すぎてロシア人が逃げ出し、ロシアに壊滅させられたチェチェンは反ロシア感情が強いのでロシア人が来ない。ロシアは -これはカレリアから極東まで必死にあちこち旅した私の実感だが- どんな街でもロシア人が多い。ロシア人のいないロシアの街なんて見たこともなかった。本当にここはロシア? だからこそ、イングーシとチェチェンという2つの国は強烈で、予測できなくて、素晴らしくて、「旅心」を満たしてくれた。料理の話をすると、イングーシもチェチェンも、肉をドンと出す一方で料理から一気に香辛料/スパイスが減った点が興味深い。これが、香辛料に満ち溢れたチェルケスの文化との大きな違いだ。なお、ここがイスラム教国家であることも料理のエキゾチックさの大きな要因となっているだろう。
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9)チェチェン共和国
チェチェン共和国での最初の食事から、キター! 肉ドーン、麺ドーン、生にんにくたっぷり汁がドーン。料理名はジジグガルナシュ。
美味しい、美味しい、夢中になって食べられる、超美味しい!! 味付けは塩こしょう、そして生にんにくのみ。生にんにくのソウスが肉汁たっぷりで超旨い。この料理は、イングーシ共和国のドゥハハウティン/ドゥーホートンとまったく同じ料理だ。すごい、イングーシ料理もチェチェン料理も嬉しいくらい強烈すぎる!! 緑もハーブもその他の香辛料もなく、シンプルでストレートでスタンニングな美味しさだ。なおこの生にんにくたっぷりの超絶美味なる汁は、チェチェン語でベラムと呼ぶ(イングーシ語と同じ)。これも、北コーカサスのソウス文化の一端なのだ。
ジジグガルナシュ以上に驚いたのが、バッアルガルナシュ(腸詰め)。
強烈な料理でしょ、うひょー、腸のヒダというか微絨毛の一歩手前が現れまくりで、肉厚な腸を使って詰めているのがよく分かる!! 中身は腸のみじん切り。腸に腸を詰めるという、モツ好きには最高の美食です。日本人の思い浮かべるソーセージとは飛びぬけてかけ離れていて、ホント面白い!!
チェチェン語の料理名も興味深いです。ホラ来た「БА1АР」みたいに「1」が入る料理名。
「БА1АР」は上の腸詰め料理のバッアルだ。メニュー下部にある「Т1О-БЕРАМ」も「1」が入る料理で、読み方はトーベラムだ。トーベラムはカッテージチーズとスメタナのソウスらしい。
チェチェン共和国では、その他、コタムガルナシュ、ヒンガル、ダルナシュ、アハルガルナシュ、チェッポルクなどを食べた。チェッポルクは北コーカサス西部のフチンなりオセチアのフィチンなりイングーシのチャッピルグなりダゲスタンのチュドゥと同じ料理だ。
そして再び驚くのが、この、ヒンガル。
カバルダ・バルカル共和国で食べたヒンカリはジョージアのそれと同じく巨大水餃子であり、イングーシ共和国のヒンガルはピロシキと同じ料理だった。で、チェチェンのヒンガルは、薄焼きパンでカボチャペーストを挟んだような料理だ。上では既に「ヒンカリは単に水餃子ではないのではないか、もっと広く、炭水化物系主食と簡単なおかずが一体化した料理を指すのではないか、と仮説を立てるようになった」と書いたが、その思いは更に強まった。なおチェチェンやイングーシでは料理にカボチャをよく使うと聞き、それもこのヒンカリにて体験することができた。
チェチェンの首都グロズヌイに滞在中、私はそのモダンで煌びやかな街並みに圧倒された。夜の街も美しい。なんと安全でなんと美しいのだろう・・・!
美しい。見とれてしまう。私はこのチェチェンの光景を目の前にしたとき、ここから足が動かなかった。グロズヌイは2000年に終結した第2次チェチェン紛争でロシア軍に徹底的に破壊されてしまった歴史をもつ。その破壊があまりに徹底的だったためにゼロからの復興スタートをきれた。もともと産油国でリッチなことも、今の政権が親ロシアであることも復興が速い一因だろう。新しい近代都市として完全に生まれ変わりつつあった。
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10)ダゲスタン共和国
ダゲスタン共和国に着き、車窓からカスピ海が目の前を青く広がった。見えたーーー!!!カスピ海だーーー!!! ぐっと実感するものがあった。これで、黒海をスタートとし、北コーカサスを西から東まで渡り切ったのだ。コーカサス横断が終わった。
料理の変化として、まず、ハーブ類が豊富で、食卓の緑が一気に増した。
クリミアやクラスノダール地方の食卓に戻った気がした。カスピ海沿岸ということは標高0 m以下で、クリミアやクラスノダールなど黒海沿岸と同じく気候が暖かいのだから、同じようにハーブ類や野菜類に恵まれるのだろう。またシャシリク(串焼き料理)にはスマック(日本のゆかりふりかけに似たスパイス)がかかっており、ペルシャの食卓とつながった気がした。ダゲスタンは古来より交通の要所かつ関所であり、ペルシャの往来もあった史実と矛盾しない。
ダゲスタンに入るなり目に付いた料理はチュドゥだ。
チュドゥはそこらじゅうの飲食店の看板やトップメニューに掲げられていたので、まさにダゲスタン共和国の国民食であると実感した。そしてそれは、これまでにも体験した、フチン、フィチン、チャッピルガシュ、チェッポルクなど他の北コーカサスの料理と同様のものだった。北コーカサス一帯に、名前が違っても同様の料理が根付くことを、北コーカサス横断を終えた時点で確認できたことになる。
さて、チュドゥは「名前が全然違っても、似た料理」だが、その対極に・・・、
「名前が似ても、全然違う料理」、これがヒンカルである。
肉と主食の組み合わせ。「ヒンカルはどっち?それとも両方?」と聞くと、店員は麺の方を指してくる。前にカバルダ・バルカル共和国で食べたヒンカリや、イングーシ共和国で食べたヒンガルがあまりに違う料理だったため、「ヒンカリは単に水餃子ではなく、もっと広く、炭水化物系主食と簡単なおかずが一体化した料理を指すのではないか」と仮説を立てたわけだが、それがダゲスタン共和国に来てもはや確信に近いものになった。「ヒンカルは皮を主食におかずを食べる料理だ。だからジョージアのヒンカリは皮がブ厚いのだ」と、今は考えがまとまっている。
ちなみにこのヒンカルも面白いですよね。
中国料理の花卷(フアジュエン)や馒头(マントウ)みたく、発酵した小麦粉の生地(パン生地)を肉汁でゆでています。味はその中国蒸しパンとまったく一緒。ダゲスタンではこれもヒンカルなんです。
なお、民族としてのダゲスタン人なるものは存在しない。お隣チェチェンがほぼチェチェン人の国、北オセチアがほぼオセット人の国というのとは対照的に、多民族性はダゲスタンの大きな特徴となっている。主要民族はアグール人、アバール人、ダルギン人、ラク人、レズギン人、ルトゥル人、タバサラン人、ツァフル人、クムイク人、ノガイ人。1つめのヒンカルはアバールスキーヒンカル(アバール人のヒンカル)。その他メニューにはラークスキーヒンカル、ダルギンスキーヒンカルなどがあり、多民族の現れであるかのように、民族ごとのヒンカルを持っていることが分かり、とても興味深かった(※)。
※ただしこれらのうち1つにトンキーヒンカルと言う料理があった。トンが名につく民族がここになく、ロシア語に「Тонкий」(トンキー、薄いという意味)という単語があることから、「薄く作ったヒンカル」という意味で間違いないと思います。つまりヒンカルを修飾するのは民族名だけではないことが分かりました。
ダゲスタン共和国のデルベントで、泊まった宿のフロントのおばさんに頼んで「ダゲスタン料理」を幾つか述べてもらった。その1つに、おばさんが「ギョーザ」と発音した料理がある。「へっ?餃子?」、興味深くて、だからレストランではわざと日本語発音で「ギョーザ、アジン、パジャールスタ」(ギョーザ、1皿、お願いします)と注文してみた。注文は一発で通ったし、出てきたものが、以下の写真。驚いた。マジでギョーザじゃないか。
ワオ!!ホントに餃子だ。なおこの料理は、クルゼ、ギュルゼ、ギューザ、ギョーザ、など、民族差なのか個人差なのか、ともあれダゲスタン共和国内でいろいろな発音で呼ばれていることを確認した。アゼルバイジャン料理にも同じものがある。しかし名称が日本語の餃子に似ている/同じであることに、非常に大きな興味を抱いたのは旅の1つの収穫だ。ホントに面白い。
そして、このダゲスタン共和国の渡航を以って、北コーカサスの全共和国という秘境を旅し終えることになります。
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11)カルムイク共和国
次に訪れたのは北上した先にあるカルムイク共和国です。コーカサス山脈から完全に離れました。もうここは北コーカサスではありません。でもここは強烈な特徴をもっています。それは、ヨーロッパにたった1つ存在する仏教国だということです。
街並みがびっくり!!ヨーロッパにこんな国があるなんて・・・。中華街とかじゃないですよ。ここカルムイクは仏教国だということです。
人の面立ちにびっくり!モンゴル系の人々です!
日本人もモンゴロイドの血統があるもの。親近感が持てますよね。食べた料理は、まずはジャンバー(塩入りミルクティー)にボルツォギ(揚げパン)、フルスンマハン(焼きそば)。
料理の見た目も料理名もモンゴル度が高い。ジャンバー(塩入りミルクティー)に、めちゃくちゃモンゴルやカザフスタンを思い出した。その他、カルムイク共和国では、ドゥトゥル(モツ煮)やビューリギ(ギョウザ)などの名物料理を食べました。
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12)ヴォルゴグラ-ド州
そして、もっと北上してヴォルゴグラードに戻ると・・・ああ、ここはもうすっかりロシア人の街。ストロバヤ(大衆食堂)もよく見るし、メニューにあるのは普通のロシア人の料理でした。なんだか、クリミアや北コーカサスから戻ると、本当に、普通のロシアに戻ってきてしまいました。
このとき、北コーカサス山塊の旅を振り返って、思った。
北コーカサスは、美しかったなあ。
---ほんと、桃源郷だったなあ---
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<北コーカサスの旅・まとめ>
まず、本編は、要点をダイジェストで書いても大変に長文となりました。各共和国ごとに分けて書いてもいいんだけど、そうすると、「国が変わると何がどう違う」という、文化の変化が書けない気がしたし、アディゲ共和国で見た「 ӏ 」がチェチェン共和国の「1」みたいな、共和国を超えた発見も書けない気がしたんです。そこで、料理の変化を中心に全ルートを俯瞰して、クリミア・北コーカサス・カルムイクの料理について一本の記事にすることとしたんです。すべて陸路での移動だったので、少しずつ場所を変えると食文化も変わってくることなど、相同や差異を見るには、1記事にまとめるのが良いと思いました。11)カルムイク共和国まで通して見てこられたなら、もう一度、1)クリミア共和国に戻って見てみてください。随分と料理が違うと実感できますから。
この土地に踏み込むための旅準備は、大変でした。チェチェン、イングーシ、ダゲスタンは最新の英語ガイドブックにも「行くな」と書いてあった。外務省の渡航情報は何十年も「行くな」と言っている。事実、現地にはロシア人観光客さえほとんどいない状態だった。治安情勢は好転の兆しとはいえ、悪いニュースは皆無ではありませんから、時間をかけ、熟考を重ね、最も大事な “綿密な下調べ” を重ねました。
それでも観光情報などはほとんど事前入手できていません。だからこそ、旅行者がほとんど通らないルートの連続で旅をし、まさに、「クリミア-北コーカサス-カルムイク」を「夢ルート」でつなぐことができました。そうして踏み込んだその土地の旅は、それまでの苦労の大きさの裏に、素晴らしい感激の世界が広がっていました。もちろん、ロシアの30日ビザの旅では、十数箇所を見ただけの体験では何も語ることはできませんが、個人旅行ならではの地元の人との触れ合いは大きく、得る感動の大きさは、計り知れないものがあった。その点には間違いがありません。
実は、今回の共和国群めぐりでは、どの共和国でも地元の人に何かしらをごちそうになっています。本当にコーカサスの人々の優しさが身に染みます。戦争を体験する人々の心は本当に優しい。優しくしてくれたみんなに感謝。そして感謝と言えば、誰よりも夫に感謝しています。尋常でない “綿密な下調べ” をこなしてくれた夫には、本当に感謝している。
でも、これだけ体験が詰まった共和国群を旅したのに、パスポートにはただ1回分のロシア出入国スタンプがあるのみ。今回の各共和国群の旅は、自分自身が強くその体験を保持しなければならないと思っている。撮った写真はおよそ3200枚。私は、それらの記録と体験に、検証を加えて記事などにして残したい。
何よりも、紛争が相次いだ今回の旅路の、今後ますますの復興と平和と幸せを、心から望む。