マスグーフを作ってみたいと思っていた。
地元の魚はチグリス川やユーフラテス川の魚。鯉(コイ)を使うのが定番なのだけど、日本では新鮮な鯉が一匹魚の状態では普通には売っていないから、マスグーフのレシピ化に当たっては、日本で流通する魚として、海の魚で作りたいと思っていた。
イラクで食べた感想は「白身がぷりんぷりん」(by夫)。
だから、こだわったのは、「焼くと白身がぷりんぷりんになる魚」だった。
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6月。地元の海で獲れたてのイサキ(体長40 cm!)を手に入れた。6月はイサキの旬である。1匹は夫の好物のお刺身とし、夫の機嫌が良いうちに1匹をイラク料理に使わせてもらうことになった。イサキは肉質の良い白身魚で、確かに焼くと白身がぷりんぷりんになる。
日本でも「マスグーフ」はイラクを代表する国民食として知られている。しかし作るためには「マスグーフ」の意味を確認しなければならない。なぜならば、もしマスグーフが現地固有の魚名だったらイサキでは作ってはいけない。いけないというより、「料理名は現地の魚名ですが日本では海の魚でないと一般的に入手できないので肉質が似たイサキで代用して作りました」といった旨をきちんと明記しなければならない。別の例えでは、もし、じゃがいもはないがヤムイモがある国で日本のNikujaga(肉じゃが)をレシピ化する場合、「Jaga(じゃが)はウェスタンポテトの意味ですがここにはないのでヤムイモで代用しています。」のように記すだろう。しかし、Imoni(イモ煮)という料理ならイモを特定しなくてよいのでヤムイモで作ってもImoniにはなれる。「料理名が特定の材料を示すか否か」、レシピ家にとってその違いは大きく、だから私は世界中の言語で料理名と料理背景を解読してきているのだ。
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◆英語Wikipedia「Masgouf」(≫こちら)
英語見出しに「Masgouf」
アラビア語見出しに「مسكوف」
ちょっとまってよ?「ک」が「g」でいいの?
現地で本当に「ک」が「g」で良いのなら良いのだけれど、普通「ک」は「k」の音なので。
◆アラビア語Wikipedia「مسكوف」(≫こちら)
アラビア語見出しは「مسكوف」のまま。
しかし「イラク方言では سمچ مسگوف です」(باللهجة العراقية:سمچ مسگوف)と書かれてる!!
まず発見はイラクの表記で「مسگوف」であること。
「ک」は「k音」だけど「گ」は「g音」だからマスグーフのグとしてぴったりだ!
OK。解決。
でも「سمچ」が分からない。
なんだろうこの「چ」の字は!?
「چ」の字、普通アラビア語を読んでいても、遭遇しないんですよね。
◆日本語Wikipedia「چ」(≫こちら)
「چ」はチェー。
ペルシャ文字で使用される。
アラビア文字にはない。
ただし、イラク方言のアラビア文字では使用される。
OK。了解。
となると、「سمچ」は一体なんだろう?
◆Wiktionary「سمچ」(≫こちら)
ここの「イラクアラビア語」の項に「アラビア語のسَمَك」(サマック)に由来し、魚の意味をもつことが書かれている。
「سمچ」は「ch m s」でこれを右から読む。つまり「سمچ」に母音がないので読み方が分からない。そこで動画で発音を確認したいと思った。
◆Youtube「رحلة البحث عن اطيب سمچ عراقي مسگوف」(≫こちら)
タイトルは「最高のイラク魚マスグーフを探す旅」
0:02 サマッチ
0:11 サマッチマスグーフ
冒頭からサマッチサマッチ言ってるので、魚のことを語っている。そして料理名の「 سمچ مسگوف 」はイラクではサマッチマスグーフと呼ばれることが分かった。
サマッチ(سمچ)が魚なので、マスグーフ(مسگوف)は調理法であろう。
◆رمضان في العراق.. سحر التقاليد الراسخة والعادات الأصيلة|صحيفة عراقنا(≫こちら)
「صحيفة عراقنا」(サフィーファイラクナ)はイラク新聞です。
タイトルは「イラクの断食月。深く根差した伝統と本物の習慣のマジック」
・イラクの有名料理は「سمك المسكوف」(サマックアルマスクーフ;魚のマスクーフ)で、イラクでは「سمچ مسگوف」(サマッチマスグーフ;魚のマスグーフ)と呼ばれます(ومن أشهر الأطباق العراقية “سمك المسكوف”، أو “سمچ مسگوف” كما يسمى بالعامية العراقية)。
・考古学的物証として4500年以上前の什器の出土品に残っていた魚の骨の残骸からは現在のマスグーフと同様の調理方法で魚が焼かれていたことが示されています( إناء يُقدَّر عمره بأكثر من 4500 سنة به بقايا عظام أسماك تدل آثارها على أنها طُهيت بطريقة تُشابه الطريقة الحالية لإعداد المسكوف.)。
・マスグーフの名前は「سقفَ」(サクフ;天井)に由来する。つまり、魚を焼く場所でずらっと並ぶ木の列に由来する(وأصل التسمية جاء من كلمة سقفَ أي صفَّ الخشب أو الحطب على شكل سقف لشيّ السمك)。
◆كلمات آرامية مازالت حية في العامية العراقية(≫こちら)
タイトルは「アラム語(※)はイラクの口語においてまだ生きている。」
※アラム語:中東メソポタミアのあたりの古代語。昔はリンガフランカ(商業などにおける共通語)でもあった。
・マスグーフはアラム語の動詞「س ق ف 」(サクフ)に由来する。つまり「串刺し」にして並べることを意味する( “مسـگوف” من الفعل الآرامي [ س ق ف ]، أي خوزق (سيَّخ))
◆アラビア語Wikipedia「خازوق」(≫こちら)
いやー衝撃的だったわ。これが1つ上のリンク先のアラビア語に出てくる「串刺しの刑の絵」。うー、魚料理のマスグーフは確かにこうして棒を立てて突き刺して作るものな…。
◆そして、アラビア語の受動分詞(~~にされたもの)は、語頭に「マ行の音」がつくことが多く、串刺しの意味の「س ق ف 」(f q s)の語頭に「م」がついて「م س ق ف 」(f q s m)となり、これを右から読んでマスグーフになり、意味は「串刺しにされたもの」となった。
◆Google画像検索
現在マスグーフの写真を見ると、1)串に刺して焼く、2)網に挟んで焼く、3)網に乗せて焼く、というように、調理方法は何パターンかあることが分かった。また4)オーブンがある家ではオーブンで焼いていた。
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ここまでの検証をまとめます。
スグーフ(串刺し)は古代メソポタミア語の継承であるアラム語の動詞であり、また考古学的物証として4500年前の遺跡産物から現在のマスグーフと同様の調理方法で魚が焼かれていたことが示されている。マスグーフはイラクの地域において極めて古い料理である。
なお料理名には「串刺しにされたもの」の意味が込められているが、現在では網焼きもあるため、必ずしも串刺しにしなくてもマスグーフと呼ばれている。
なんか、最後の件(くだり)、日本語にも大いに見られますよね。金属で作っても机や椅子と言うし、オール電化の調理器具でも強火弱火と言うし、竹製でなくても箸は箸ですしね。串焼きにしなくてもマスグーフはマスグーフでよいのです。
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マスグーフは最も古いイラク料理の1つです。日本で作るなら、叶うならアウトドアで薪の火で焼きたいですね!! それがなければ七輪などの炭火か、それもなければ魚焼きグリルなど。でもいいんです。マスグーフは食材や焼き方を一義的に限定する用語ではないことも分かって嬉しいです。
でも、串刺しでも網焼きでもいいとはいえ、何も知らないで作ってマスグーフと呼ぶよりも、ちゃんと知って作ってそれをマスグーフと呼ぶほうが絶対にいい。もしマスグーフを作ってみたい方に、こういった今回の料理の基礎背景の検証が役に立てば嬉しいです。
個人的には、これまでアラブ圏の国各地で魚を「サマック」と呼んできたのが、イラク方言だと「サマッチ」になることを知ることができて、収穫になりました!