ギニアビサウ料理

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【基礎情報】

国名:ギニアビサウ共和国、Republic of Guinea-Bissau、首都:ビサウ、ISO3166-1国コード:GW/GNB、独立国(1974年ポルトガルより)、公用語:ポルトガル語、通貨:セーファーフラン(XOF)。

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【地図】

ギニアビサウはアフリカ大陸西部の大西洋沿岸にあります。北はセネガル、東と南はギニアに接しています。

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◆西アフリカの米の国。典型的な食事は「ビアンダにカルド」

陸路でギニアビサウに入る旅人は、セネガルから南下するか、ギニアから西に入るか。でも見どころも大してなく旅が苦しいギニアビサウを避ける人もいる。もし陸路で入国すればそこは、周辺がフランス語圏の中にポツンと異世界のポルトガル語圏。周辺国にも貧しい僻村は多いのでギニアビサウだけが特別の田舎ではないにしても、この国の行き渡らぬインフラの中を旅するとあまりに日本と違い、開き直って「この逆境こそ旅」と旅が楽しくなる日々。アフリカの主食と言えばクスクスやフフが有名でも、ここは米の国で、「ビアンダ(炊いた米)とカルド(シチュー類)」を一皿盛りにし、干し魚は命の綱でもあります。アフリカを旅して疲弊した胃に「米と魚」って嬉しくないですか? ギニアビサウ料理は私の胃袋を完璧につかみました。

ギニアビサウ
民家の昼食。調理するのも食べるのも綺麗に掃かれた庭の土の上(撮影地マンパタフォレア)

地図で西アフリカをよく見ると、大河の分岐が入り組んだ水郷地帯のような場所があります。セネガル・ガンビア・ギニアビサウ・ギニアのあたりです。ギニアビサウは西アフリカの小さな国で、面積は九州と同じくらい。気候は熱帯。豊富な河川があり、高い山は無く(国内の最高地点は標高310 m)、内陸部は乾燥したサバンナです。大河が分岐した広大なデルタ地形が広がり、特に沖合にデルタ由来の島々がある地形は世界的にも珍しいそう。

ギニアビサウは貧しい国です(※)。河川だらけで幹線道路や橋もあまり作れず、産業化は遅れ、不安定な政治、インフラ不足、半数以上の国民が貧困状態にあることなど、多くの課題を抱えています。

※2024年の名目GDP(一人当たり)は約951米ドル、世界197か国中181位

貧しさの主要因は「ここがポルトガル領だった」から。アフリカには元ポルトガル領の国が5つありますが、ポルトガルが植民地でやったことは搾取であり、国を良くする運営をしてこなかった。石油やダイヤモンドが出るアンゴラ、天然ガスが出るモザンビーク、海運や空運の中継サービスの需要があるカーボベルデ、独立戦争も内戦もないまま穏やかな政治を敷いてきたサントメプリンシペはそれなりに自活できる良い面がありますが、ギニアビサウは凄惨な状況です。ポルトガル領時代の識字率は1%(※)、激しい独立抗争を受けたポルトガルが何の引き継ぎもせず撤退したため、インフラや行政システムを作れるエリートが非常に少なく、国じゅう残党兵だらけで、統制不能な中で独裁政治が始まったため現在に至るまでクーデターの連続。政府が国際麻薬密輸を仲介するだなんて、今もまともな国家運営が出来ていないと言わざるを得ない状況です。

※1950年代のポルトガル統計で「人口の99%が文盲であり、アフリカのポルトガル領の中で最も文盲率が高い」と記録されている。

まずはこのような概要を頭に入れた上で、食文化を理解するためにギニアビサウの歴史を見ていきましょう。

アフリカ大陸にも古くから「国」がありました。現在のギニアビサウの地域は、1230年から1537年までマリ帝国に、その後1867年まではカアブ王国に属していました。特にカアブ帝国は現在のギニアビサウ内に首都を置いており(※)、まさにギニアビサウの前身の前身にあたる帝国です。住民はアフリカ系黒人で、デルタ地形には水質を良くするマングローブが茂り、漁業のほか、古代から稲作を行ってきたのが特徴です。内陸の乾燥地帯はミレット(ヒエ)栽培に適しています。

※カアブ帝国の首都カンサラは現在のギニアビサウ北東部のカマリジャソリ村。

次はポルトガル視点で歴史を見ていきます。
ヨーロッパの大西洋沿岸にあるポルトガルは古くから航海技術を持っていました。西暦1400年頃のポルトガルは大変で、1300年代半ばより欧州全土に感染者を出し人口の半数が死亡したというペスト(黒死病)と、隣国カスティーリャ(現スペイン)との戦争(1385年)のダメージが重なり、激しいインフレ(貨幣価値の暴落)から国は疲弊。その頃の賢帝に国を立て直す能力はあっても、ヨーロッパにはイスラム社会が広がり、地中海交易はジェノバなどの都市国家に牛耳られていた。富の象徴であるアジアの香辛料は欲しいがイスラム商人を通じてしか買えず金と同じ価格がした。だから「中東・地中海を経由しないでアジアに行く海のルート」を国家事業として決行。これがアフリカ大陸進出の背景です。

上の賢帝の息子は有名なエンリケ航海王子。名前が航海王子でも本人は航海せず本土から指令を出すのみですが。彼がセウタを攻略したとき「サハラ砂漠の南には金が採れる豊かな緑の土地(ギニア)がある」という情報を仕入れます。そしてスペイン(コロンブス)の新大陸発見(1492年)よりも前に、以下のような勢いでアフリカを攻略したのです。

  1. 1415年現セウタ攻略
  2. 1434年現西サハラ到達(ボジャドール岬)
  3. 1441年現モーリタニア到達(ヌアディブ)
  4. 1444年現セネガル到達(ダカール)←サハラ越え成功!
  5. 1446年現ギニアビサウ到達(カシェウ近郊?)
  6. 1456年現カーボベルデ到達←無人島だった
  7. 1488年現南アフリカ共和国到達(喜望峰)

1446年以降、ポルトガルが現ギニアビサウの海岸部に往来するようになると、それまでサハラ交易で栄える内陸のマリ帝国に塩や金や奴隷を納めていた地域住民は、ポルトガルが持ってくる欧州最先端の物品や武器目当てでポルトガルに売るようになり、経済的・軍事的に成長し、マリ帝国から脱却してカアブ帝国設立(1537年)に至りました。

ポルトガル人は、「カアブ帝国から奴隷を買う→海岸部から奴隷を積み出す→カーボベルデの役所で物流や税関コントロールし→奴隷をブラジルなどに売る」という流れでぼろ儲けしていきます。奴隷積み出し地は、後にカシェウとビサウ(現ギニアビサウの首都)としてポルトガルが正式に領有を宣言します(それぞれ1588年、1687年)。ただ、沿岸部は押さえても、内陸部は現地の部族による抵抗が大きくノータッチのまま。

またカーボベルデは元無人島ですがギニアビサウから運ばれた奴隷により港や町が作られて奴隷交易で発展し、今や独立国です。ポルトガル人は、ギニアビサウ本土では風土病や黒人抵抗部族により大勢命を落としたので、無人島でやりたい放題やれる&乾燥した良い気候で風土病が少ない、ということでカーボベルデに大勢のポルトガル人を駐在させ、学校を作って地元民も教育し、中から整えました。「カーボベルデが拠点。ギニアビサウは原住民も病気も怖いから最低限の遠隔管理」という図式があったから、冒頭に書いた、「元ポルトガル領の国の現在の悲惨さ」に両国で雲泥の差があるのです。ギニアビサウのインフラは搾取する作物を運ぶ程度の最低限。

次にギニアビサウの食産業を見ていきます。
1807年、英国が奴隷貿易禁止法を制定し、アフリカでも奴隷船を取り締まるようになりました。当時の英国はフランス・スペイン連合艦隊に勝った(1805年トラファルガーの海戦)「海の王者」で、王者様の監視下ではポルトガルは奴隷貿易が出来なくなっていき、全植民地で奴隷貿易をやめました(1836年)。同時期に、現地住民は自分たちの商品作物として落花生栽培をスタート。フランスで落花生油ブーム到来(せっけん作りなど)。落花生油の輸出は順調です。

その頃フランスはアフリカに侵攻してギニアビサウの周りを制圧。カアブ帝国はポルトガルにとってフランスの侵入を防ぐ砦でしたが、黒人部族紛争でカアブ帝国が倒されてしまい、ポルトガルは「遠隔管理地というだけではフランスに取られてしまう」と焦り、それまで「拠点のカーボベルデと付属のギニアビサウ」だったところを切り離し、「ポルトガル領ギニア」と「ポルトガル領カーボベルデ」という2つの対等なポルトガル直轄植民地に仕切り直しました(1879年)。これがベルリン会議(アフリカ分割会議)でも承認され(1885年)、フランス・ポルトガル国境条約(1886年)で国境線の取り決めもなされ、現在もその国境線が使われています。

ちなみに大変間違われやすいのですが、ベルリン会議はアフリカに国境線を引いた会議ではなくて、「領有は実効支配の事実を作ったモン勝ち」などのルールを作った会議です。だからギニアビサウで実質沿岸部しか掌握していなかったポルトガルは、その後血眼になって武力行使で内陸部を完全制圧(1915年)。全土掌握したポルトガルは換金作物としての落花生栽培を住民に強制。住民は自分たちが食べる米やヒエなどを作れなくなって生活が困窮しました。しかも落花生は作り続けると土地が痩せるため、栽培の限界からポルトガルは「第二の換金作物」としてカシューナッツ栽培への切り替えを決め、作物切り替えと同時期にアミルカル・カブラル(農業技師)を農地調査に送り込みました(1952年)。

このカブラルこそがギニアビサウの奇跡!! 彼は「ギニアビサウ生まれカーボベルデ育ち、両親がカーボベルデ人のギニアビサウ人」。ポルトガルの農業試験場勤務中も故郷を想い続けて赴任のチャンスをつかみ取りました。彼は落花生の強制栽培が国土を荒廃させたことを明らかにし、全国の農民と対話し、全土で支持の基盤を得て、なんと脱ポルトガルのための政党(ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党;PAIGC(パイジェセ))を立ち上げるんですね。不満たっぷりの農民らは強力な兵士や支援者となり、カーボベルデと共同して独立戦争(1963年~)を起こしました。戦争中にカブラルがポルトガルの何某かによって暗殺(1973年)されるもPAIGC(パイジェセ)は勢いを止めず同年「ギニアビサウ共和国」の独立を宣言。

大体ね、ポルトガルは植民地を引っ張りすぎたんですよ。1960年がアフリカの春と呼ばれるように、その他の植民地は1960年前後に大量独立したのに、ポルトガル領の独立戦争は、アンゴラは1961年~、ギニアビサウ・カーボベルデの連合は1963年~、モザンビークは1964年~。ポルトガル本国では約40年続いたサラザール独裁政権も限界状態となり、ギニアビサウに独立宣言(1973年)されると国内クーデター(1974年カーネーション革命)で独裁体制は終了しました。1974年にギニアビサウが単独独立。アフリカポルトガル領の残り4か国もすべて1975年に独立できました。

ちなみに、独立前のギニアビサウは「ポルトガル領ギニア」。旧「フランス領ギニア」が先に独立(1958年)して「ギニア」という国名を使っていたので、後発としては同じ名前が使えず、首都の名をつけてギニアビサウとしました。

本当はね、ギニアビサウとカーボベルデは一緒に独立したかったんですよ。カブラルは「ギニアビサウ生まれのカーボベルデ人」だったからね。でも独立直後はギニアビサウもカーボベルデも国づくりがうまく立ち行かず統一断念。まあ両国は相当離れているし、統合できなかった流れは妥当かなと思います。

では食べ物の話に入ります。
ポルトガルは、ギニアビサウで落花生(1915年~)、次にカシューナッツ栽培(1950年前後~)の栽培を強制し、利益を搾取しました。独立後も農業の立て直しは立ちゆかず、現在も国家の輸出額の9割(!)をカシューナッツだけに依存する危ない経済 -市場価格変動や悪天候一つで国家財政が破綻する仕組み- の沼にはまったままです。稲作に適した水源地に住みながらも、主食の米すら自給自足できず、国民はカシューナッツの収入でアジアの米を買っています。

最後は、以上の背景を踏まえて、ギニアビサウの食文化をまとめます。

  1. 気候は熱帯。パームオイルやパームワインがある
  2. 西アフリカのデルタ地帯。水源に恵まれ、古くから漁業や稲作を行い、魚や米をよく食べる。内陸ではミレット(ヒエ)なども
  3. 食肉は牛肉、ヤギ肉、鶏肉などがある。豚肉は非ムスリムなら食べる。庶民のタンパク質源としては魚の干物も重要。民家ではよく魚を干している
  4. 西アフリカに共通する食文化として「ぶっかけ飯」すなわち「一飯一汁」が定番。周辺国フランス語圏では「リソス」(リ=米、ソス=上にかけるシチュー)。ギニアビサウでは「ビアンダ(米)とカルド(シチュー)」
  5. ポルトガル領時代の換金作物の強制栽培から稲作が衰退したが、米を主食とする食文化は変わらず、現在はアジアからの輸入米を食べている
  6. 落花生は今も栽培され、カルドマンカラ(落花生のシチュー)はギニアビサウの筆頭の国民食である
  7. カシューナッツは、輸出するナッツ以外の部位(果肉・果汁)は国内消費される。カナデカジュー(地酒)などになる
  8. カーボベルデはギニアビサウから運ばれた人々(及びポルトガル人の混血)の国。両国は民族も食文化も土台が同じ
  9. ギニアビサウもカーボベルデも、アフリカの黒人料理にポルトガル料理の要素が混ざった、いわゆるキリオル(クレオール)料理が多い
  10. 料理名はポルトガル語あるいはキリオル(ポルトガル語と黒人言語の融合言語)で呼ばれるため、周辺のフランス語圏と同じ料理でも違う印象を抱かれやすい。例:カルドマンカラはセネガルではマフェ
  11. 独立後も内戦やクーデターが起こり、政治の腐敗や治安の問題が深刻。貧困層の国民が多く、おかずをお腹いっぱい食べられない質素な食事が多い

ギニアビサウは米の国。世間の多くの人が抱くアフリカ人の主食の「いもやとうもろこし、フフやクスクス」というステレオタイプはここではあまりピンときません。特に地方農民の食事は質素だけど、質素だからこそ地元食材を使用する。地元食材を使用するから味は美味しい。それに、電気がない家の調理は釜と薪なので、直火で炊いた釜炊きごはんは美味しい!!

でも旅行者の記憶で言えば、ろくに食べるところもなくて苦労した国でもあるんです。だから、旅して食べるギニアビサウ料理とは、あなたがどこに行くかにもよります。

以上、歴史、民族、地理などを背景にギニアビサウの食文化を知る基礎を解説しました。ギニアビサウの理解のためにはどうしてもポルトガルとカーボベルデが切り離せないし、私がここまで知ってやっと腑に落ちたので長くなりましたが、ギニアビサウ料理を知りたい方に「知るための文章」を書きました。以下各論では、項目別にギニアビサウ料理を詳解していく予定です。
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