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- 文章を改筆しました(「ヨーロッパの火薬庫」とは、から始まる段落)。
【基礎情報】
国名:アルバニア共和国、Republic of Albania、首都:ティラナ、ISO3166-1国コード:AL/ALB、独立国(1913年オスマン帝国より)、公用語:アルバニア語、通貨:レク。
【地図】
アルバニアはバルカン半島の西岸部に位置する国です。北から時計回りにモンテネグロ、コソボ、北マケドニア、ギリシャと接しています。西の海の対岸はイタリアです。
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◆失われた食文化も、新しい時代とともに復興中
アルバニアはバルカン半島西岸でギリシャの北に隣接する地中海ヨーロッパの国です。地中海諸国の料理といえば太陽の光をいっぱいに浴びた野菜類が豊かに実り、魚に恵まれ、そこに酪農による肉や乳製品も加わって食卓の色とりどりの料理が見事です。アルバニアも「ポテンシャルは」そうで、平野、森、湖、川、山、海に由来する多様な食材があり、晴天率が高く、土地は作物を豊富に生産する「ことができます」。でもアルバニアに行くと明るくてわくわくする料理とは乖離した感覚が受け取れる。料理に質素な「陰」があるのは共産主義時代が長いゆえんか。20世紀に鎖国をしたアルバニアは、食文化に「闇」をもっています。
国民食のキョフタ(またはチョフタ)にオスマン帝国の影響を感じる。(撮影地ティラナ)
アルバニア人は古くはイリュリア人と呼ばれた人々で、スラブ人でもギリシャ人でもラテン人でもなく、独自の言語を話す固有の民族です。今のアルバニアの地域は古代よりギリシャやローマの支配を受け、4世紀のローマ帝国が分裂時には境界ギリギリで東ローマ帝国に属します。ちなみに西ローマ帝国は100年ももたずに滅びてしまいますが、東ローマ帝国は15世紀まで続き、バルカン半島は東ローマ帝国の縮小に伴い段階的に(13~15世紀)オスマン帝国支配下に入ります。オスマン帝国はイスラム教を国教としたため、バルカンではキリスト教からイスラム教への改宗が進みました。
「ヨーロッパの火薬庫」とはバルカン半島の近代史では有名な言葉で、オスマン帝国の力が弱まるとバルカン各地が蜂起し、第一次バルカン戦争(1912年)、第二次バルカン戦争(1913年)勃発。第一次は地元の連合軍がオスマン帝国を撤退させて領地を得て地元民(スラブ人やギリシャ人)で領土分割した戦争で、第二次はその分割に対する不満に基づく地元民の戦争です。更に言うとこの火種が直接的誘引となって大爆発したのが第一次世界大戦(1914年~)です。でもスラブ人でもギリシャ人でもない独特民族のアルバニア人は民族意識ができていたので第一次バルカン戦争で早速国固めができちゃいました!(1913年アルバニア公国成立)。ただし現在のコソボ地域はアルバニア人居住地域ですがすでにセルビアに取られていて獲得できず(この続きはコソボのページで記載します)。
アルバニアの食文化は、オスマン帝国時代は地中海の食文化の一員として大変に豊かでした。作物や魚介類に恵まれ、山に囲まれた土地では酪農も盛んで、肉をよく食べるオスマントルコの絢爛な食卓の影響のほか、食文化が発達していたギリシャやイタリア/ローマ/ナポリの影響をも受けていました。
第二次世界大戦後、アルバニアではエンベルホッジャ率いる共産党が政権を獲得します。「独裁政権」って悪いイメージですか? 実はそんなことはなく、現在のシンガポールも一党独裁。独裁でも良い政治は出来るんです(独裁政権が悪く語られるのは腐敗してきたときに対立がいないため)。アルバニア共産政権も初期はソ連の経済支援もあって好調で、ホッジャは国民から尊敬され、すべての人に仕事を保証し、人口は増え、文化や芸術も高まって明るい時代でした。ただし食文化の点では国民平等を是とする共産主義ゆえすべての食糧は配給され、集団化されました。
しかしホッジャはソ連との関係を断ち切り、マーシャルプラン(※)脱退、中華人民共和国との関係をやめ、隣接するユーゴスラビアには絶えず敵対的。つまり、東側諸国・西側諸国のいずれとも協調せず、国は孤立し輸出入が途絶えたことで国民生活が犠牲となりました。これがアルバニア史で有名な鎖国です。配給の食事もままならない状態で、国民は生き残るための食事しかできず、海外脱出もできない。海は脱出口とみなされ魚を獲ることもできない状況。ヨーロッパ各国が戦後の成長を遂げているのに、アルバニア国民の生活は1980年代は特に悲惨だったそうです。
※マーシャルプラン:米国による第二次世界大戦後の欧州復興援助政策。
1991年にソ連が崩壊して社会主義国が次々に凋落してアルバニアに非共産時代が訪れても、しばし経済はカオスな状態で立ち直れませんでしたが(ネズミ講事件という集団連鎖的詐欺がこの時期です)、現在は、混乱から時が経ち復興中です。45年間の強硬な共産主義支配の間は母から子にレシピが受け継がれることもなく、見かけ上食文化が失われたかのようでしたが、今も90歳近いご婦人(共産時代の前に料理を覚えた女性たち)はかつての豊かな料理を作れるそうですよ。アルバニア人シェフたちはそういう伝統料理を保存すべく努力しているし、世界各地に離散した移住者たちがアルバニアに帰還して各国の料理を持ちこみ、地元の食材を利用して融合させた新しいアルバニア料理が作られています。だから、今のアルバニア料理では、オスマントルコ由来の数々の料理を礎とし、ピザ(イタリアの国民食)もグヤーシュ(ハンガリーの国民食)もギリシャ料理を彷彿とする海鮮料理各種もあり、イスラム教の国とはいえ飲酒は完全合法という寛容っぷりです。
以上、アルバニアの食文化を理解するための基礎知識を概説しました。「地中海性食文化圏で共産主義陣営だった国」なんてアルバニアが最たる国ですから、単にアルバニア料理をオスマン帝国の影響の料理みたく安直に言ってはダメなんですね。もともとイリュリアの豊かさに、ギリシャ・ラテン・スラブに囲まれて多彩な食のポテンシャルがあって、さらに帰還したディアスポラ(※)たちの食の導入もあって、現地で食事をすると確かに食の幅広さを感じます。それらの食文化の「光と影」を理解してこそ、アルバニア料理の理解と言えます。
※ディアスポラ:国外への離散者。アルバニアの共産主義政権終了後は国外に出られるようになり大勢が世界各地に移住した。ちなみに現在アルバニアとコソボに住むアルバニア人は全アルバニア人の半分以下しかいない。
現在アルバニアでは失われた食文化も現在復興中。伝統的な料理と新しい料理の両方が食卓を豊かにしていくのは楽しみですね。アルバニアの食文化には今後も大いに注目していこうと思います。
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